第2章 世界を体験する
この章には何が書かれているか
科学博物館のジレンマ
シカゴの科学産業博物館でのゼネラルモーターズ社提供の展示の話
テクノロジーを使った展示がなされているが、閲覧者に新しい知識は与えてくれない
実質のないまったくのエンタテイメント
博物館に訪れる人は長々とした説明など聞いてくれず、だから科学的な現象に興奮してもらえればそれでよい、という考え方で運営されている。
rashita.icon体験重視の考え方
しかし、自分が体験したことを理解していたかというとノーだし、何かを学んだかと言えばノーだった、というのが著者の見立て。
サンフランシスコのエクスプロラトリアムという科学博物館は見学者が能動的に展示と出会えることをコンセプトとしている
説明員がいて、案内をしたり質問に答えたりしてくれる
rashita.icon面白いのは、能動性を重視しているのに、見学者の自由に任せる放任主義ではないということ。
アシストがあることが、能動性を重視することにつながっていく、という構図
これについてはよく考えたい
科学博物館は、動機づけ・夢中にさせることが重要なのだと説くし、その点は著者も同意している。
しかし、その先の仕事、つまり興味を持った後のことを博物館でやっていないことに不満を持っている。
学び、考え、内省する機会を十分に与えていない
体験的認知を提供しているが、内省的認知が置き去りにされている
アーケードゲームのゲームデザイナーはこの二つをうまくサポートしている
デモ画面(アトラクターモード)によってやってみようという気持ちにさせ、いざゲームが始まればチュートリアルやらゲーム内の説明で思考を促す。
rashita.icon博物館は入館してもらえればそれで仕事の一部が終わっているが、アーケードゲームのデザイナーは、一度プレイしてもらうだけでなく、二度三度プレイしてもらうことが仕事である点に違いがあるのかもしれない。
体験的認知と内省的認知
熟練された行動内では体験的認知が働いている
『Chatter(チャッター): 「頭の中のひとりごと」をコントロールし、最良の行動を導くための26の方法』でも同様の話が出てくる。
体験的思考こそが熟練行動の本質
情報のパターンが知覚され、同化され、そして適切な反応が何の努力もなしに瞬時に生成される。
熟練行動は長い年月をかけた経験と訓練が必要
→『習慣と脳の科学』
簡単な計算に瞬時に答えが出せるのもこれのおかげ
その意味で体験的は反応的とも言える。
熟練のルーチンは体験的であるが、意思決定には内省(プランニング)が必要となる。
体験モードは、脳の情報処理的にデータ駆動型だと言える
インプットがあり、それに対して蓄積されたデータを再活性化させる
小さい規模の推論も可能だが、推論の連鎖(=深さ)には限界がある
内省的な推論には、推論の深さに限界がない
→そのかわりに、処理が遅く、面倒
一時的な結果を保存し、
蓄えられた知識から知識から推論し
その道行きが間違っていたら、バックトラックし、別の方向に切り替えることもできる
rashita.icon熟練のルーチンにはこれがない。行為が始まったら、それが終わるまでワンセットになっている。
よって、深く実質的な内省には
気の散らない静かな時間
外部記憶装置
がサポートになる
内省的認知(内省モード)は概念を扱うモード
プランニングや吟味といった処理
時間がかかり負荷も大きい
さまざまな外部記憶装置や他人からの支援が役立つ
ただし、そうしたものの表現がモードに適合している必要がある
概念駆動型
トップダウン
体験モード=パフォーマンスは知覚的処理のモード
パターン駆動、イベント駆動
rashita.iconこれはボトムアップなのだろう。
二つの概念の対比が徐々にはっきりしてきた。
その対比は、おそらくこうした文章の記述という表現ではなく、表組みによる表現が適合しているのだと予想する
思考モードの二分法は簡略化されたもので、完全なものではない。
この二つがすべてではないし、独立もしていない
空想のようにどちらでもないものもある
rashita.icon空想はデフォルトモード・ネットワークだろうか。
ただし実用的な側面でこの二つに注目する意義はある
なぜならテクノロジーはこの二つの極のどちらかに向かわせる性質があるから
rashita.icon重要な点に思える。
人間の思考は複数のモードが交じり合う雑多なものなのだろう。テクノロジーはそれを極化させる。それがもたらすメリットもあるだろうが、デメリットもあるだろう。
たとえば集中できる道具は素晴らしいが、集中しすぎてしまうことはメンタル的によくない可能性がある。
モードと道具の不一致がもたらす問題
体験モードのための道具なのに、内省を要求する
比較・探索・問題解決の助けにならない内省のための道具
たとえばパソコンの狭いディスプレイなど
内省すべきときに体験してしまう
著者が今日問題だとしているのはこの不一致。
楽しみが思考を乗っ取る。
また、内省的思考を働かせていないのに考えたつもりになってしまう。
rashita.icon知ってるつもりならぬ、考えたつもり。
体験すべきときに内省してしまう
内省的思考は、現代文明の重要な要素
→『啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために』がこの話を展開しているrashita.icon
エンタテイメントの問題点
体験モードばかりで内省の時間を与えない
自分自身の考えを持つための時間
娯楽と仕事が共に大切なように、体験と内省もどちらかだけでなく共に必要
よく学びよく遊べ( Work while you work, play while you play. )と同じ構造rashita.icon
外山滋比古は『忘却の整理学 (ちくま文庫 と-1-10)』でこの言葉に触れていた。
外山は呼吸などとの対比でこれを用いていた
三種の学習
蓄積(accretion)
事実の集積など
主に体験モード
適切な概念的枠組みの有無で、その難易度は変化する
概念的枠組みを持っていれば、意識的な努力なしに達成される
調整(tuning)
スキルの熟練など
主に体験モード
『習慣と脳の科学――どうしても変えられないのはどうしてか』で中心的に扱われている。
再構造化(restructuring)
適切な概念構造の形成
これは新しい認知スキルの獲得を意味する
『脳は世界をどう見ているのか 知能の謎を解く「1000の脳」理論』で示されている「座標」の設定がこれに当たるのだろう。
主に内省モード
教育におけるコツ
まず学生を対象へ熱中させ、興味を持たせて、動機づける
つぎに内省のための適切な道具を与える
探求し比較し、その結果をまとめるための適切な概念構造を作るための道具
rashita.iconそれはどのような道具だろうか
動機を持っている学生は、周囲のサポートがあまりなくても自分で学ぼうとする
エンタメは動機づけを与えるのに強力で、たとえ周囲のサポートがなくても自分でそこから知識を広げていくことが起こりうる
内省はたしかに大変な仕事だが、努力をすべき理由があるときは楽しい
rashita.icon第一章で科学博物館が動機づけにこだわっていたのも、こうした傾向があるからだろう。
とにもかくにも動機づけが重要で、それが得られたら後は放置しても自分で学んでいくことが起こりえる
しかし、必ず起こるわけではないし、どう学べばいいのかをその時点ではわかっていないこともある。
支援がまったくなしで構わないわけではない
rashita.icon体験モードしか提供しないエンタメですら、人は学びの契機にしてしまえるとも言える。
フロー体験(ミハイ・チクセントミハイ)について
体験モードのとき起こりやすいが、内省モードでも起こりうる
秘訣は内部・外部からの割り込みの排除
内部はChatter
外部は電話や通知
動機づけについて科学は何を知っているのか
動機づけや楽しみ、満足の根底に在る要素について、われわれのもっている科学的知識がいかに少ないか、驚くほどである。この問題は、実験室で人間の認知を研究するという文脈ではめったに現れない。これは一つには、制約された状況下での研究では、知というものを論理的でシステム的で肉体をもたないものとして扱い、主観的な体験や情動、社会的インタラクションをなおざりにしているからである
ハード・サイエンスとして対応(対処)しているということ
rashita.iconこの指摘はきわめて重要だと思われる。
もちろん、最近では動機づけについても研究はなされているが、「社会的インタラクション」あたりはまだまだ不十分で、たとえばそれは『欲望の見つけ方: お金・恋愛・キャリア』で示されているようなルネ・ジラールの模倣理論あたりを加味しないとその全体像は立ち現れてこないだろう。
チクセントミハイによると、人生の質は仕事をどう体験するか、他人とどのような関係を持つかに依っている。
目標やフィードバック、ルール、チャレンジといった特性が組み込まれていることが重要。
rashita.iconたとえばこれは『暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)』の視点からも再考できるだろう。
二つの研究
ブレンダ・ローレルの一人称体験の分析
スポーツと演劇による分析
一人称的関与と三人称的関与
一人称的関与は直接的没頭的で三人称的関与は受け身、部外者的(傍観者まで行くか?)
気が散るとこうした関与は難しくなるし、逆に知覚体験の質が高まればこの体験も深まる
距離が離れると没頭しにくくなる
逆に大型テレビやヘッドホンは没頭を助ける
道具がもたらす妨害もある
ダイアログなどモーダルなもの
→『オブジェクト指向UIデザイン──使いやすいソフトウェアの原理 (WEB+DB PRESS plusシリーズ)』でモーダルとモードレスの話が解説されていたrashita.icon
スザンヌ・ボトカーの活動中心のアプローチ
人間がタスクを遂行するとき、焦点と目標を持つ。
人の注意は、道具ではなくタスクそのものに向けられるべき
そうでないとフローは壊れてしまう
道具が背景に引き、タスクの一部になるのが望ましい
それが直接関与の感覚を作り出す
至高の体験を助ける環境
インタラクションとフィードバックが豊富にある
明確な目標ときちんとしたルールがある
動機づけがある
常にチャレンジングな感覚がある(ちょうどよい難しさ)
直接関与
混乱させない道具
妨害がない
ゲームと講義
ゲームはイベント駆動型の活動で絶え間ない刺激とフィードバックがある
一方講義は一時間もの集中を要求する
人間は一つのタスクを長く続けるのが苦手
実際生徒に調査しても別のことを考えている
rashita.icon自分の経験を振り返ってもそう
勉強は一人でするものという認識があるが、集中を助ける役割が果たされるなら他者や環境はたいへん役立つ
自己流のプレーとトレーニングとの違い
ただ何かをやるだけでは学習ことにはつながらない
自分が体験したことについて内省が必要で、その内省を受けてさらに体験を行うというループが必要
コーチはその内省を提供してくれる
rashita.icon内省のアウトソーシング(外部委託)
習熟するための条件を注意深く設定し、フィードバックとガイダンスを適切に与え、体験から多くを得られるようにする。
そういうデザインがコーチの仕事であり、自分ひとりで何かをする場合は、自分でこれをやらなければならない
教育に必要な環境
絶え間ない刺激、仮想世界、他者との交流によって、ガイダンスとフィードバックを生むこと。
rashita.iconこの「ガイダンスとフィードバック」が大きなキーワードに見える。
マルチメディア
単にマルチメディアを使えばOK,という考え方については著者は否定的
つまらないものがカラフルなグラフィックで表示されてもつまらない
子どもがゲームに夢中になるのはすごいこと
かなり難しい課題を集中して解決していっている
教育者はそれに学ぶところがあるのではないか。
少なくとも講義のようなスタイルでは、子どもに集中を求めるのは難しい
教師とゲーム製作者がそれぞれに最善を尽くす(二つの技術を融合させる)ことが目指すべき未知ではないか
再び科学博物館について
最良の展示は、教科書に出てくる現象を試せるインタラクティブで探索的な実験室になっている
情報と実現を豊富に提供するためにテクノロジーを使うべきなのだろう。教師から出た問題を生徒が探索し解くための学習に向いた実験室を作ろう。こうすることで、教師は知識の発見のアシスタントとなり、生徒が探索したり内省したり理解していることを再構造化したりする際のガイドとなっていくのである。 p.081
知識は、生徒自身が発見し探索し再構造化しなければならない。
『私たちはどう学んでいるのか: 創発から見る認知の変化 (ちくまプリマー新書 403) 』
暗記は反復的な知識の獲得であり、探索や内省な再構造化を必要としない
言い換えれば、それはすでに存在している構造に対して要素を一つつけ加えるだけ
あるいは、スキナー・ボックスのトレーニングなどに近い
暗記でない知識の獲得は、探索や内省や再構造化を必要とし、そこでは認知資源が大量に使われる。
システム2が働きやすい環境が好ましいし、また、その探索、内省、再構造化を助ける(与えるのではなく)ための支援があった方がいい。
『習慣と脳の科学――どうしても変えられないのはどうしてか』
まとめとして、学習がうまくいくには以下が必要
知識の蓄積
手続きの調整
概念的に理解していることを再構造化するためのかなりの内省
以上は、二つの認知モードをうまく組み合わせることが必要
rashita.iconどちらかだけでなく、どちらもが必要で、それらがうまくつながっていることも大切だろう
認知モードはどちらも集中の維持が必要でそうした環境が最低限の条件となるだろう。
それぞれの読書メモ
シン・yasumiのメモ:『人を賢くする道具』第2章
第2章 世界を体験する いいだ つとむ
第2章 世界を体験する choiyaki
第2章 世界を体験する tks
『人を賢くする道具』第2章 tasuのメモ
それぞれのレジュメ
『人を賢くする道具 』「第2章 世界を体験する」のまとめ|倉下忠憲|note
yasumiのレジュメ:第2章 世界を体験する
/practicefield/『人を賢くする道具 』「第2章 世界を体験する」のレジュメ
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